ベルギー観光局ワロン地方

ベルギー観光局ワロン地方|ベルギーの基本情報・歴史

●古代とケルト人~ローマ人・4世紀頃

旧石器時代の始めからこの地方にはすでに農耕と漁労を主とする人類がすみついていた。氷河期が去ってヨーロッパの原野に住めるようになると、農耕が盛んになり、金属加工も発達した。西暦一万年の頃、さまざまな民族がヨーロッパ東方から移住してきて、現在のベルギーのあたりに定住し始め、その後ケルト人が移住してきた。青銅時代ケルトのアキテーヌや、ゴール族とは異なった文化を持つベルガエと呼ばれるケルト部族が定住するベルギー地方は、紀元前57年にユリウス・カエサル率いるローマ軍によって征服される。が、中でもベルガエ族はガリアで最も勇猛果敢な部族と、カエサルは「ガリア戦記」に記している。ケルト語で戦士を意味するベルガエ(Belgae)はベルギーの語源となった。

ローマ帝国の属領となったベルギー地方はローマ人からガリア・ベルギカと呼ばれ、ローマ人の優れた組織力によって国内整備が進み、農工業が発展する。道路が作られ、ライン河と北海に臨むブーローニュを結ぶルートにはいくつかの町が物資の中継地として発展していった。ルーヴェン、ブリュッセルなどである。

四世紀頃に徐々にキリスト教が低地地方にもたらされ始め、この地方は経済的にも精神的にも豊かな平和な時代であった。しかし、ローマ帝国の衰退とともに5世紀になると、ゲルマンのフランク族が侵入し、この地方を占領した。ローマ帝国はその結果北部を放棄し、南部へと後退をよぎなくされ、その結果ゲルマン語を話す人々の北部とラテン語を話す南部へと二分された。ベルギーがゲルマン系の北部とラテン系の南部と言語境界線によって二分されるルーツがここにある。

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●中世・5世紀~14世紀

[フランク王国(445-853]

5世紀、ベルギー地方はフランク人によって征服される。メロヴィング朝のクローヴィス(481-511)はフランク王国を樹立し、トゥルネーを王朝の首都と定め、後にパリに移した。7世紀初頭、メロビング朝はキリスト教へ改宗し、教会や修道院が各地に建てられるようになる。カロリング家の小ピピン(751-68)、その子のシャルルマーニュ(カール一世、カール大帝)(768-814) の時代には現在のベルギー地方も安定し、キリスト教も広まった。西暦800年、シャルルマーニュは西ローマ帝国の皇帝になった。シャルルマーニュはリエージュ近郊に生まれ、アーヘンを愛し、リエージュ郊外のエルスタルに離宮を持ったが、ムーズ川流域地方は帝国の中心地となった。この時代、西ローマ帝国は東は北のエルベ河から、ドナウ河中流を通 り、イタリア東端を結ぶ線、南は東の方でローマ南方、西の方でピレネー山脈の南まで含む広大な地域を支配した。キリスト教が盛んになった。

しかし、西ローマ帝国旧領の大半を統一したフランク王国もシャルルマーニュ没後、ヴェルダン条約(843)、メルセン条約 (870) の結果分裂し、現在のベルギー地方はスヘルデ河を境に西フランク、中フランクに分割されることになった。(形式的には16世紀の中頃まで、維持され、アウグスブルグ宗教会議でようやく撤廃された。)さらに、帝国崩壊を速めたのが、9世紀頃のノルマン人の北方からの度重なる攻撃と侵略である。その脅威から自衛とキリスト教を守るために、各地で司教や地主たちを指導者とする多くの封建国家が生まれた。封建領主の出現である。フランドル伯領、ブラバント伯領、リエージュ候国、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルグ伯領、ルクセンブルグ伯領などがこうして出来上がった。1096年異教徒から聖地エルサレム奪還のために第一次十字軍遠征を率いたブイヨンのゴッドフリー・ド・ブイヨンなど封建領主がこの時代を支配する。

ノルマン人の略奪行為に備えてフランドル伯はフランダース地方の城塞都市づくりを始めた。それらのうち最古のものはゲントである(867年)。砦を築くことが町の起こりとなったブルージュや、イーペルを始めとする中世都市の誕生である。急激な商業の発展をみたフランドル伯領は、ヨーロッパで最も人口が多く、発展した地域となった。ベルギー南部、ワロン地方のムーズ川流域一帯もまた急激に発展を遂げた。その中心となったのは金属工業である。ベルギー地方の北部フランダース地方と南部ワロン地方の経済の土台となった。ネーデルランド南部はヨーロッパの交易の十字路となった。

[封建時代  中世の自治都市の時代]

10世紀以降、河川に沿って発展してきた交易は物資の中継、補給地として町は次第に発展し、都市となり、市が定期的に立つようになり、道路が輸送路として使われるようになる。新しい階級として生まれてきた商人や職人達は力を付けるに従い、自治を求めるようになった。自治都市の誕生である。ノルマン人の侵略が止むにつれて、ヨーロッパ国内は次第に安定し、各国の経済は飛躍的に成長したが、特にフランダース地方は黄金時代の幕開けとなる。イギリスからの羊毛で高級織物が生産され、ヨーロッパ各地に販路を見出したフランダース地方の諸都市は繁栄し、人口が増加し、強大になった。

一方南部地方も同じ様に発展をたどるが、その中心になったのは金属工業であった。ベルギーの南東部はドイツの王たちの下、低ロタリンギア(ロレーヌ)公国の一部となった。977年、ロレーヌ公シャルルがセンヌ川の中島に城壁を築き、これがブリュッセルの始まりである。しかしこの南東部は、大半は多くの小領邦に細かく分割されていた。そのひとつにはリエージュ皇子司教領があった。

13世紀になると輸送は陸路から海上輸送へと代わる。ハンザ同盟都市として、ブルージュは北ヨーロッパの国際商業の中心地として15世紀後半まで確固たる地位を誇った。が、15世紀後半外港ズウィンが沈泥によって港としての機能を失うにつれ、衰退をたどり、代わってアントワープが台頭することになる。一方、ブルージュやゲントなどの都市では織物職人の市政参加を求める運動が展開され、ことに百年戦争期(1337-1453)にはフランドル伯、フランス王、イギリス王を巻き込んで複雑な政情となった。1302年黄金の拍車の戦いはフランス軍に対する市民の勝利を示すものであった。

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●中世紀末・ルネッサンス期・15世紀・16世紀

[ブルゴーニュ(1396-1467)の時代]

さまざまに群雄割拠状態であったベルギー地方をリエージュ皇子司教領を除いて統一したのがブルゴーニュ公たちであった。フランドル伯は娘マルグリットをブルゴーニュ大公、フィリップ(勇胆王)に嫁がせ、これにより、ブルゴーニュ公家はフランドル伯家との婚姻によりベルギーに入り、封建領主の統一を成し遂げた。その息子のフィリップ善良公はその領土をジーランドからルクセンブルグに至る11州の形に再統一した。ブルゴーニュ公国が繁栄期を迎えたのは、フィリップ善良公の時代(1419~1467在位 )であった。フィリップは1419年宮廷をディジョンからブリュッセルに移し、ブリュッセル、ナミュール、リエージュなど南東部の都市を統治した。公は各都市の独立を抑え、ブリュッセルからの中央政権をとり経済を強化した。この時代、ブルゴーニュ公国の繁栄とともに文化・芸術も大きな飛躍を遂げた。特に絵画はロベール・カンパン、ファン・アイク兄弟、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、その弟子のハンス・メムリンク、16世紀にはヒエロニムス・ボス、ピーテル・ブリューゲルと続く。文化の爛熟期を迎えた。ブリュッセルのグランプラスのような豪華絢爛なフランドル・ゴシック様式建築が誕生したのもこの時代である。

[ハプスブルグの時代(1482-1555)]

1477年フィリップの息子シャルル勇胆公が悲劇的な死を遂げ、ブルゴーニュ家は終わりを告げる。シャルル勇胆公の娘、マリー・ド・ブルゴーニュは同年、神聖ローマ帝国およびゲルマン帝国の支配者の息子、ハプスブルグ家のマクシミリアン1世と結婚し、ネーデルランドの殆どはハプスブルグの支配に入った。彼女の死によって、マリーの夫、マクシミリアンはブルゴーニュ家の領地を摂政として引き継ぎ、ネーデルランドはオーストリア領(ハプスブルグ家の領有)になった。マクシミリアンの息子(フィリップ・ル・ボー)はスペインの王位 継承者である娘(ジャンヌ・ド・カスティーユ)と結婚し、その結果彼はスペイン王の地位 を得た。彼はネーデルランドをも依然として支配した。

[カール5世]

フィリップの子、カール5世(シャルル五世、ハプスブルグ家出身のスペイン王カルロス一世 (1500-1558)が生まれる。フィリップの死後、現在のベルギーにおける彼の支配権はカール5世によって引き継がれ,ネーデルランド全17州を手中にした。神聖ローマ皇帝カール5世はゲントで生まれ、メッヘレンで育ち、アーヘンで即位 した。1490年代にブルージュの運河が土砂の堆積により下降をたどると、商業の中心はより北方に移り、カール5世の治世下、アントワープが西ヨーロッパ最大の貿易港として、また金融の中心として発展を遂げる。芸術や科学、文化が隆盛をきわめ、エラスムス、メルカトール、ベサリウスなどの知識階級を輩出した。ベルギーは世界で最も発展した地域の一つであった。カール5世は故郷の諸州は彼の叔母、オーストリアのマルガレーテ、ついで、その妹、ハンガリーのマリーを総督に任命し統治させた。1549年のアウグスブルグ条約、基本法勅令によって低地諸国家はフランシュ・コンテとともに、神聖ローマ帝国の中で独立主権と国家の地位 を与えられ「ブルゴーニュ社会」を形成する。それによってこの地方は主権を持つ統一国家となった。

カール5世は1556年に退位し、これによってハプスブルグ家はオーストリアとスペインの両家に分かれたが、この両家をカールの息子、フェリペ2世(1555-98)は相続した。16世紀後半、ベルギー人はオランダ人らと共にフェリペ2世の暴政に闘った受難の時代である。彼は新教徒を弾圧して、旧教主義による世界の統一を図った。彼は長じて低地諸国家、スペイン、ナポリ、サルディニア、シシリー、ミラノ、フランシュ・コンテなどを統治し、まもなく新世界(アメリカ大陸およびフィリッピンにわたる海外の大植民地)、ついには帝国の支配者となる。

[新教徒の弾圧]

1555年、フェリペ2世がスペイン王に即位 。フェリペ2世は厳格なカトリックであり、当時北ヨーロッパで勢いを増してきたプロテスタント派との対立が、悲劇的な結末を見ることとなる。特にベルギー北部フランダース地方の都市において、プロテスタント派は政治的側面 が濃く、これがその後の長年に及ぶ貴族支配への抵抗運動へとつながっていく。フェリペは、北部の不穏な動きを過酷かつ強硬に弾圧した。王は北部に大スペイン軍を送り、何千という新教徒を処刑した。1565年までにオラニエ公ウィレム一世とフランダース地方長官エグモント伯の指揮下、強力な貴族同盟が発足し、スペインへの抵抗に加わった。フェリペはこれに対抗し、悪名高きアルバ公を1万の軍の指揮官として送り込んだ。アルバ公はウィレム一世を追放し、エグモント伯や他の指導者的存在である貴族をブリュッセルのグラン・プラスで処刑した。恐怖政治の始まりである。これに対し、民衆の暴動が勃発した。特に北部の抵抗は激しく、数年の内にアルバ公は、南部の都市を除きその支配力を失った。当時、南部の都市は依然としてカトリック教会寄りだった。

1576年には、北部においてウィレム一世は、絶対的な支配力を持つにおよび、スペインと和解した。北部同盟はその後、75年に及ぶ独立への戦いを続けることとなる。一方、南部のカトリック地域はスペインへの忠誠を守り、これがいわゆるスペイン領ネーデルランド(現在のベルギー)である。1648年、「ミュンスターの講和」により、すでにかなり衰退していたスペインは、北部同盟(オランダ連邦共和国)の独立を承認、またスヘルデ河口の閉鎖を承諾した。その結果 、アントワープとゲントは、かつてのブルージュと同様、商業の中心地としての地位 を失った。その後の何世紀かにわたり、オランダのアムステルダム港が世界的貿易港としての地位 に取って代わることとなる。

[アルブレヒト大公とイザベラ時代(1598-1621)]

フェリペ2世は臨終に際して娘のイザベラと従兄弟にあたる夫のオーストリア大公アルブレヒトをスペイン領ネーデルランドの統治者に任命した。この治世下、リエージュを除く南部ネーデルランドは半ば独立自治となった。新しい君主は国民の親愛と尊敬を集め、文化を育んだ。宮廷画家ルーベンスが活躍したのもこの時代である。12年間にわたる休戦の時代(1609-1621)は、いはば幸福な時代であった。

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●近世・17世紀~19世紀

[17世紀]

次の世紀になると、フランスがヨーロッパで最強の国として台頭してきた。ルイ14世(1659-1715)治世下、フランスはスペイン領ネーデルランドにも勢力を及ぼそうと努力を重ねていた。ルイの野心はスペインから恐れられただけではなく、強力なフランスの力が国境を脅かすのを望まないオランダも同様であった。英国もまたフランスの拡張政策に対立し、ことにオランダの統治者であるウィリアム3世が英国国王となってから更に対立は激化した。その結果、今日のベルギー地方は、この時代はルイ14世とそれに対立する連合勢力との間の抗争の場となったのである。1695年ブリュッセルは破壊を受ける。

[18世紀(オーストリア統治時代から18世紀末~1814年フランス統治時代)]

この抗争が頂点に達するのは、跡継ぎのないスペイン王カルロス2世の死後、王位継承を巡って起こったスペイン継承戦争(1702-1703)であった。死期の迫ったカルロス2世は、ルイ14世の孫でもあるアンジュー公フェリペ5世を後継者を指名した。誰もが予想した通り、ルイ14世は彼の親戚である若いフェリペに、スペイン領ネーデルランドをすぐにフランスに割譲することが、すべての関係者にとって一番の良策であると伝えた。この提案はフェリペにとって拒否できるものではなく、と同時に他のヨーロッパ勢力にとっても受け入れがたいものであった。その後10年間、フランスは数度に渡って支配権を確立せんと試みた。一方、オランダ、英国、オーストリア軍はたえずそのつど挑戦をはねつけた。1713年、ついにルイは断念し、ユトレヒト条約によってスペイン領ネーデルランドはオーストリア統治者であるハプスブルグの手に渡った。

オーストリア人は通商と商業の発展に努めた。1720年代、オステンド・カンパニーは東洋貿易を成功裡のうちに進めていた。が、オーストリアはヨーロッパ諸国からの圧力を受けて中止せざるを得なかった。実際、この時代、この地方には半ば独立した国のような気運がみなぎっていた。17世紀、弱体化したスペインの要求に対して殆ど気にもとめなかったように、ハプスブルグの要求に対してもさして注意を払うこともなかった。18世紀末頃にはベルギーは自己のアイデンティティーを確認する準備ができていた。1789年フランス革命が起こると、オーストリアに対抗する為に立ち上がった。そして1790年ベルギー合州国として独立を宣言したが、新しい国の指導者達の団結心の欠如のため、あえなくオーストリアに制圧される。しかしその後オーストリアはフランス共和国との戦争になり、1795年戦勝国フランスはベルギーを「解放」した。とはいえフランスは自国では大きな改革を制定し、それは後の近代ベルギーの政府の基盤となったにもかかわらず、ベルギーを単に財源と軍需源としかみなしていていなかった。教会は襲われ略奪され、大量の徴兵が行われ、かつてのスペイン占領時代の悪夢をほうふつさせるかのように、レジスタンス運動は弾圧された。

[オランダへの統合時代(1815~1830年)]

ナポレオンの出現はベルギーにおけるフランスの統治をより建設的になものとし、産業は再活性化され、封鎖されていたスヘルデ川が解放されると、アントワープも部分的に復興を遂げる。が、1815年ワーテルローでナポレオンが敗退すると、その結果ウィーン会議で、連合国側はベルギーをオラニエ公ウィレム1世の統治するオランダ王国に帰属すると決定した。1830年に至ってベルギー人の忍耐も限界に達した。ブリュッセルで革命が起こり、たちまちのうちに全国に広がった。ウィレムは再度支配権を取り戻そうとするものの、数ヶ月後には撤退した。1831年1月20日、ベルギーは何世紀も続いた外部の支配からようやく独立国家として認められたのである。

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●新しい王国・1830年独立~現在

[1830年独立から19世紀末~第一次大戦まで]

初代国王に新しい憲法の下にドイツのザクセン・コーブルグ家のレオポルド一世が選ばれた。レオポルド1世と息子のレオポルド2世の時代、ベルギーは経済的にも文化的にも発展する。植民地として、アフリカのコンゴ(現ザイール)を1960年の独立まで領有したのはレオポルド2世であった。

1909年レオポルド2世死去にともない、甥のアルベール1世が国王を継ぐ。アルベールの治世下は大半が第1次世界大戦であった。激しいレジスタンス運動にもかかわらず、ベルギーの大部分の地域は厳しいドイツ占領下に置かれた。ベルギー軍は侵略を凌ぎ、終戦近くに国を再び取り戻すのに中心的役割をはたした。アルベールは、1934年登山事故で不慮の死を遂げる。王妃エリザベートは芸術の偉大な後援者として記憶されている。ユージン・イザイと共に世界的に有名なベルギーの音楽コンクールである「エリザベート王妃・コンクール」を創設した。

[第二次大戦以降]

アルベールを継いだ息子のレオポルド3世は、やはり父親同様、戦争に直面することになる。1940年ドイツはベルギーとオランダを攻略したが、この時、ベルギー政府は慌ててロンドンに亡命したが、レオポルドは、コルトレイクのベルギー前線が破れた時、ドイツ側に降伏してしまう。ユーペン、マルメディー、サンクトヴィットはドイツに併合され、他のベルギーは占領された。レオポルドは捕虜としてドイツに連行される前に、ラーケン宮に囚われの身となった。1944年連合勢力がベルギーを解放すると、レオポルドに反感を抱く国民感情は明らかで、その結果、彼の弟であるシャルルが摂生政治を執り行なう。1950年レオポルド3世はベルギーに帰国したが、ほどなく1951年、余儀なく退位し王位を息子ボードワンに譲った。

戦後、ブリュッセルは徐々にヨーロッパの首都しての役割を担うようになった。ヨーロッパ共同体(現ヨーロッパ連合)と北大西洋条約機構の本部の設置、国際ビジネスのヨーロッパにおける中心地という評判を得るまでになった。1957年ベルギーはオランダ、ルクセンブルクと共にベネルックス連合を形成した。

戦後の最も意義ある発展は国内各地域の自治権の増大にある。1977年にブリュッセル、フランダース、ワロンと3つの行政府に分割され、1980年の憲法改正によってこの分割が認められ、国家形態は連邦制となった。1995年ブラバント州はフランダース・ブラバントとワロン・ブラバントに二分され、全部で10州となった。 1993年ボードワン国王逝去によって、弟のアルベール2世殿下が王位を継いだ。アルベール2世殿下はイタリアのパオラ・ルッフォ・ディ・カラブリアと婚姻、国王夫妻にはフィリップ皇太子(正式な王位継承者)、アストリッド王女(オーストリアのロレンツ大公と結婚)そしてローラン王子の3人の子供がいる。

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Belgian Tourist Office Wallonia

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